渡辺美里「サマータイムブルース」の歌詞を読む。
サマータイムブルース
シングルとしては初の渡辺美里自身による作曲の楽曲です。シングル16枚目ということで、もっと初期の作品のイメージがありましたが、当時はシングルのリリースペースも今より早かったですからね。CMにも起用されたりしていました(そしてこのCMがかわいかった)。この曲を西武球場のライブで聞いた思い出は忘れられません。
天気図は曇りのち晴れの予報
週明けの第三京浜選んだ
流れる雲の切れ間から
吸い込まれそうな青空
眩しい太陽標的にしてフリスビー
遠くにシュルル飛んでいく
波打ちぎわ黒い犬が
ジャンピングキャッチしている
イントロ。抜ける青空が目に浮かび、ぐっと引き込まれます。太陽を標的にしてフリスビーをシュルルと投げる。なんてことのない描写に感じますがその表現力はさすがだなと感じます。わたしの目から見える、夏のまぶしい描写で始まったこの曲ですが、次の一節で、それまでの夏のキラキラした描写から一転し、突然シリアスな印象に変わります。
夏の海のうねりのように
今でもきみおもっているよ
とりのこされたの私のほうで、
きっと自由になったのはきみね
前段までの楽しそうな夏の描写からの反動にドキッとします。
わたしはきみに別れを切り出したのに、きみへの想いにあいかわらず囚われているわたしがいる。うねりという表現で、その想いが大きく上がったり下がったりする様が想像できます。
最後のゴールころんだ時の
傷跡はまだ 痛みますか
寂しいときすぐに会えると
そっと笑って 別れたけど
渡辺美里の歌詞には、ラグビーを想像させる表現がよく出てきます。実際にラグビー部のマネージャーをしていた美里と、サマータイムブルースのわたしが重なります。
そっと笑って 別れたけれど
笑って別れる。
爽やかさも感じるこの別れ方が、かえって恋愛の未熟さや、刹那的な感情も感じさせて、切なさ感じます。
第三京浜選んだ
冒頭のこの言葉で、今わたしは車を運転できる大人になっているのかなと想像します。学生の頃の想いが未だに忘れられないわたし。そして自由になったきみ。
"見えない永遠よりも、すぐそばの君と今日信じていた"
見えない永遠よりも
サマータイムブルース すぐそばの
きみと今日 信じていた
サマータイムブルースの詩の中でこの一節が特にすばらしいなと思います。
若い頃ってそうだよね。きみと今日、それだけでいっぱい。未来のことなんて考えていない。非常に切なくて余韻の残る一節です。
何かを 変えてゆけたら
サマータイムブルース この夏は
素足のままで 素足のままで
たどりつけるはずね サマータイム
わたしは、未だ続くきみへの想いを断ち切って、一歩踏み出されなくては、と思っている。ここでこの曲の中で唯一ブルースのつかないサマータイムがここで出てきます。何かを変えることができたら、その先の夏にたどりつけるわたしがいるのでしょうか。天気図が曇のち晴れになるように。裸足になったわたしは新しい夏を迎えることができるのでしょうか。
本人の作詞作曲ということで、まさに渡辺美里を代表する1曲。明るい爽やかな曲調の中に切なさが同居するこの曲は、聞くたびにいつもほろっときてしまいます。当時より今聞く方が圧倒的に胸に突き刺ささります。
追記
ざーとサマータイムブルースの歌詞に思うところを書いてみて、少し経ってからふと思ったのですが、冒頭の夏の描写、これって"現在のわたしの見ている描写なのか、それとも過去の描写なのかどっちなんだろう"、と考えるようになりました。
黒い犬がジャンピングキャッチしていると現在進行形で書かれていたので、現在のわたしが見ている世界なのかと思ったのですが、もしかしてこの部分も過去のわたしが見ていた景色だったのかな、と思ったわけです。
つまり曇りのち雨の天気予報が出た日にわたしときみとデートした日の描写。そうするとその後のあの日のスニーカー白すぎて恥ずかしかったにも繋がりますね。
大人になったわたしが思い出の場所に来て、きみへの想いを断ち切ろうとしているのかと思っていたのですが(それはそれで断ち切れてなさそうだし)、砂浜の描写は全て思い出なのかもしれません。詩って面白いです。
サマータイムブルース 1995年 西武スタジアムライブ
明治生命CM